『つばさの丘の姫王』 発売一周年記念ショートストーリー 「海」 by 六花梨花 |
光が零れる。真っ白な光。玉となりくるりくるりと転がって、薔薇の紋章の窓硝子を抜け、広間へと降り注ぐ。 窓際にある玉座の前で、大きな白狼が腹をさらけ出し、大いに油断した姿で眠りこけている。 これ以上ないほど幸福そうに眠っている狼の尾に向かって、小さな手がそっと近づいた。 「きゃんっ!?」 突然、尻尾に走った痛みで、白狼――八角は目を覚ました。 まだ半分寝ぼけている彼が見たものは…… 「ヴィヴィアン?」 なのだが、大人の姿ではなく、五歳くらいの子供姿のヴィヴィアンだ。 しゃがみこんでいる小さなヴィヴィアンは、愛らしい両手で八角の尾を掴み、にこにこ笑っていた。 (あれ、ヴィヴィアン、赤ん坊に戻ったっけ?) と、思ったのだが、はたと気づく。 (子供に戻ることは出来ないよな。 だってもう、フェニキアクスは起こらないはずだもん。 ヴィヴィアンが自分の意思で止めたんだから……) だとしたら、目の前のこの少女は? と、疑問に思いながら、八角はヴィヴィアンをじっと見る。 「ヴィヴィアン、オレの知らない間に、子供産んだ?」 「何を寝ぼけている。私は私だ」 「えっ、ヴィヴィアン本人なの?」 小さなヴィヴィアンは、自信たっぷりに、こくりと頷いた。 (これって、夢なのかな) だが、さっき引っ張られた尻尾の付け根は、まだしんしんと小さく痛みが残っている。 (夢って痛みとか感じるんだったっけ…) 疑問に思っている八角の前で、ヴィヴィアンは笑っている。これが夢か、そうでないかなど、些末な問題になってしまう、とても幸せそうな笑顔だ。 (ま、どっちでもいっか。ヴィヴィアン、楽しそうだし) 「なんでオレの尻尾、思い切り引っ張ったんだ?」 「海に行こう! ずっとず~っと前に、約束したままだっただろう? 波打ち際で砂の城を造って、トンネルを開通させるって」 そういえばそんな約束をしたな、と、八角は記憶を反芻する。 ヴィヴィアンが、ダウスをウィングフィールドに閉じ込める魔法を使う前。八角がまだこの姿ではなく、ドラゴンのグリムだった頃の――遠い遠い昔……八百年以上前の約束。 そんな古い約束の夢を見ていることに、八角は苦笑する。 「オレ、そんなにヴィヴィアンと海に行きたいって思ってたのかな」 「お前もなのか。だったら話が早い。私を背中に乗せて、海までひとっ飛びしてくれ」 ふさふさの八角の額に、丸く愛らしい額をこつんと当てると、ヴィヴィアンは左右にぐりぐりと擦りつけた。 「へへっ。じゃあ、デートだ。背中に乗りな」 スカートを纏っているのもおかまいなしで、ヴィヴィアンは八角の背中にひらりと飛び乗った。 「よーし、いっくぞー!」 八角がそう言うと、広間の両開きの硝子扉が、ぱんっと自然に開いた。扉の向こうは、晴れ渡り、とても気持ちの良い、一面の青空。 「そらっ!」 ヴィヴィアンを乗せた八角は、ぽーんとそこへ飛び込んだ。 真っ青な空にぽつんと浮かぶ小さな雲のように浮いていた白狼は、少女を背に乗せたまま、ひらりと浜へ舞い降りた。 ざざん、ざんと不揃いな波の輪唱が聞こえる。 約八百年ぶりに聞くその音に、二人のボルテージが一気に上がり、ぱあっと花が咲いたような顔を見合わせ、叫ぶ。 「海だ!」 「ヤッホー!」 「それは、山に来た時のセリフだろう、八角。 この辺りは、ちょっと石が多いな。もっと砂が多いところへ移動するか」 「よし、じゃあ、このまま……とうっ!」 八角はヴィヴィアンを背中に乗せたまま、人間の姿となった。背中に乗っていた少女は、大男に肩車される恰好となる。 「どこか良さげなところあるかなー?」 「あ、八角、イルカだ!」 「うわ、ほんとだ!」 「追いかけろ!」 「よーし、しっかり掴まってろよー! キャッホー!」 波打ち際を平行に泳ぐイルカの群れに速度を合わせ、八角は駆けだした。 「あははは!」 勢いをつけて走り出した八角にタイミングを合わせきれなかったヴィヴィアンは、少し背中を反らしたままの姿勢ではしゃぎ、つるつる頭をぺちぺちと叩いた。 ぼざっと大きな音をたて、八角がうつ伏せに倒れると同時に、ヴィヴィアンは砂の上へ降り立った。 「沖へ行ってしまったな」 「ぜえ、ぜえ……。あいつら元気すぎる……。何百回と往復して、疲れ、た……」 「ではもう、館へ帰るか?」 「帰る訳ないだろ! まだ、砂の城造ってないんだぞ!」 「では、造ろう」 「おうっ、どんなのを造るんだ?」 「ウィングフィールドの館を模して造ろう。前に造った時は、館の裏山もどきのようになってしまったからな。今日こそ、ちゃんとしたレプリカにするぞ!」 「よーし、任せとけー!」 うつ伏せに横たわったまま、八角は左右に手を広げ、ざざっと中央へ寄せた。一掻きでヴィヴィアンの体躯ほどの量の砂が集まる。 「よし、その調子でどんどん砂を集めろ」 「おうっ!」 八角が集める砂を、ヴィヴィアンが小さな手でぺしぺしと形成していく。 まずは、ヴィヴィアンが腰掛けることが出来るくらいの大きさの長方形を。それが完成すると、海水で砂を固め、細々としたものを器用に指で模っていく。 「よし、らしくなってきた」 「おおー、ヴィヴィアン、腕を上げたなー」 八角に褒められ、まんざらでもない顔をした幼いヴィヴィアンは、勢いに乗り、どんどん城を模っていく。 いよいよ、それらしい形になった頃、ヴィヴィアンはふふんと嬉しそうに鼻を鳴らした。 「そろそろ、正面玄関から広間へトンネルを開通させるとするか」 「よし、裏口から突破するのは、オレの役目!」 トンネルを造るため、二人同時に砂の城へ指先を突っ込もうとした、その時―― 二人を覆う、大きな黒い影。 不思議に思った二人が見上げると、そこにはあんぐりと口を開けた鯨のような、一際大きな波が迫っていた。 ざばんっ、と、大きな音をたて、大波はすべてを飲み込んだ。 ざざざ……と、荒々しく波が引いていくと、そこに残っていたのは、水浸しになったつばさの丘の姫王と、その盾である八角。そして、半壊した砂の城。 少しの間、互いをじっと見つめていたが、小さな波がひとつ、二人の膝にまとわりついた途端…… 「ぷっ」 「ははっ!」 どちらからともなく、大きな声で笑い合った。 「えへ、えへへ……。きゃんっ!?」 突然、尻尾に走った痛みで、八角は目を覚ました。 まだ半分寝ぼけている目に映ったのは、八角の背後にしゃがみ込み、ふさふさの尻尾を握っている、大人の…… 「ヴィヴィアン?」 「そうだが……。なんだ、夢でも見ていたのか?」 きょとんとしている白狼の顔を覗き込みつつ、ヴィヴィアンは握りしめている尻尾をゆっくり左右に揺らす。 「うん。ちっちゃなヴィヴィアンと、海に行ってた。楽しかった!」 八角の言葉に、ヴィヴィアンは少し唇を尖らせた。 どうしてすねているのかと八角が訊ねる前に、ヴィヴィアンは白い三角の両耳先を、みょんっと指で引っ張った。 「お前だけ楽しんで、ずるい。私も行きたい。砂の城を造って、トンネルを開通させるんだ」 「じゃあ、行く? 今はもう、どこでも行ける躰になったんだし」 「そうだな。思い立ったら吉日とも言うし。随分前に約束したことだが、それを今すぐ果たすとしよう」 「えっ……覚えててくれたんだ」 「当たり前だろう。私はお前の母親だぞ」 八角は、へへっと子供のような貌で笑い、すっくと立ち上がった。 「じゃあ、みんなに声を……」 「二人で行かんか? お互い、汽車にも乗れるようになったんだから、スーツケースを持って、汽車で海へ行こう。お前も私も、見ているばかりで、まだ乗ったことがなかっただろう?」 「やったー! 前から汽車に乗ってみたかったんだー! じゃあオレ、人間の恰好で行くー! ヴィヴィアンをエスコートするんだったら、人間の姿の方がいいもんな!」 「なるほど。紳士だな、八角」 「おう、紳士だぜ!」 言うが早いか、人間の姿になった八角は、ヴィヴィアンに向かって肘を差し出す。 ヴィヴィアンは、そこに手を添えた。 「じゃあ、行こう!」 「ああ、八角。これからも、たくさんしていた約束を、ひとつずつ果たしていこう。私達はもう、何にも縛られてはいないのだから」 「うん、ヴィヴィアン!」 血の繋がらぬ母子は、幸せに目を細め、広間を出る。 二人きりの楽しい旅支度をする為に―― |
【おしまい】 |